まとめ

・人生100年時代における大人とは?20歳で大人はその当時の平均寿命で決められた?

・大人って何で20歳?日本社会は成人年齢18に引き下げを検討だが、実際の人々の精神はその逆では?

・「アダルトチルドレン」「モラトリアム人間」これらは問題というのではなく当然の事なのでは?

・嵐の大野くんはミッドエイジクライシス?いや、まだ思春期でも当たり前?

・人生プランの見直し。人生マラソンのどこでエネルギーを最大にするか。

人生100年時代における大人とは?20歳で大人はその当時の平均寿命で決められた?

長寿化が進み、100歳まで生きることが当たり前の時代になりつつある。20年学び、40年働き、20年休むという、人生80年を前提とした親世代の人生モデルはもはや成立しなくなってきている。

予防医学者石川善樹「人生100年時代のキャリア論」https://bnl.media/2017/01/ishikawa-career.html

人間五十年〜下天の内をくらぶれば〜と織田信長が謳った頃は遥か昔。人の寿命はもうすぐ二倍になると言う。予防医学者の石川善樹によれば2050年までに100歳以上の人間は100万人になるそうな。


100万人とはどれほどの規模感だろう。それは広島市や仙台市などの都市に住む人々すべての数だ、と言われても東京タワー何個分と言うみたいであまり想像がつかないが、100歳以上の人が100万自分の前に集まってくる、と考えたら何となくそれはとんでもない数だなと思えてくる。


人口減少が叫ばれる日本社会。総務省の統計によれば現在の約1億2000万人が9500万人に減ると言われている。
仮に統計通りに進み3500万人がごっそりこの社会から消えていなくなる、というイメージを想像すればそれはそれで恐ろしいものだが、現在100歳以上の高齢者の数(2019年)は約7万人でそれが100万人に増える、というのはなんという増加だろう、と驚愕させられる(https://www.sankei.com/life/news/180914/lif1809140019-n1.html
新生児が新しく入ってくるのがストップした社会。次から次へと今楽しそうに笑っている現役世代が高齢者になっていき、その一方で絶え間ないスピードで現在の高齢者がその社会から消えてゆく。

そうすれば見える景色も感覚も変わるだろう。

政治の世界では60代70代になってようやく舵取りが任されるのが戦後の自民党政治では慣例だったわけで、40代などはまだまだ若手という感覚だったが、これからは一般社会も30代40代は今で言う20代くらいの感覚になっていくのかもしれない。

勿論、このまま変化をしないで統計の通りに行けば、の話であるが。

大人って何で20歳?日本社会は成人年齢18に引き下げを検討だが、実際の人々の精神はその逆では?

画像引用元:産経新聞https://www.sankei.com/affairs/news/180313/afr1803130051-n1.html

若者により早く社会の一員になってもらい、利益を享受してもらう必要性から、選挙権も引き下げ、そのまま成人年齢も18歳へとする検討を社会はしている。これはこれで確かにそのようにするのがいいのであろうが、しかし実際その頃合いに大人であれ、というのは難しいはずである。

少し自分語りになってしまうが、周り道が続き、同世代に遅れを取っていた僕は、23歳の頃に20歳で大人というのはどのように決まったのか調べた事がある。自分はまだ可能性があり、猶予のある青年の時期だと思いたかったのだ。今から見ればまだまだ青年なのだが、自分を「大人」として見たくなかったのだと思う。

その時どうやら当時の明治政府は平均寿命から大人を20歳と決定したという事を知り(何の文献だったか覚えていないのだが、中々資料が見つからなかった記憶がある。誰かのエッセイだったかもしれない)、そうかそうか、ならやっぱ今の自分はまだ大人として自分を意識しなくていいな、と安堵したのだった。

明治より前の時代は死んでしまうのがもっと早かったから12とか16くらいまでに元服して大人だと考えられたのが、肉食や医学の進展で寿命が伸びた事により、明治政府は20歳を成人と。(文献が見つからないが成人は平均寿命から換算するという事を話題にしているエッセイなどはネット上でも散見できる)https://www.sankei.com/affairs/news/180313/afr1803130051-n1.html

もちろん先進国では世界的に18から20を成人年齢と定め未だにそれを変えていないのだから「Why Japanese People~!日本おかしーよー」とか言うつもりは全くないけれど、とにかく昔はそうやって決めていたんだなあ、と思わされ、例えばこの彫刻家の大黒という方も述べているように、今の平均寿命ならば30歳で当時の大人という感覚なのではないか、と思ったものだ。(https://k-daikoku.net/come-of-age/)

「アダルトチルドレン」「モラトリアム人間」これらは問題というのではなく当然の事なのでは?


ところで、世の中考えている人は考えているものだ。

人口の減少は世間では2000年代になって(肌感覚では結構最近)ようやく一般の人々も問題だと声をあげるようになったはずだが、例えば作家で元長野県知事の田中康夫もそのデビュー作「なんとなくクリスタル」の最後のページに人口減少予想のグラフを載せていた。

放埒な現代社会(当時)の消費的な若者を題材にした小説にも関わらず、その日本社会の行末である人口減少予想のグラフが絶妙な塩梅で悲壮な未来を暗に提示していて、おおっ、と読後に思わされたのをよく覚えている。

同じように、現代社会の寿命が伸びたのだから今の生き方を見直したほうが良い、というのも、1983年の時点で精神学者の河合隼雄が同じく精神学者の小此木啓吾と対談の中で述べていた事だ。

当時の文藝春秋に載せられた両者の対談文の中で、河合はモラトリアム人間というのは人生が長くなって青年期が長くなったということであり、青年期である「思春期」だけでなく、中年期に再びアイデンティティに関して悩まねばならない「思秋期」も長くなっている、と語っているのである。

( 小此木啓吾 河合隼雄「会社人間の危機管理法」『文藝春秋 ─日本とアメリカ「誤解」の研究』1983年 4月号 p420) 

ん?ちょっと待って。モラトリアム人間?と思った方は安心してほしい。この言葉はこの対談相手である小此木啓吾によって日本で初めて紹介された言葉なのだが、その意味は

年齢では大人の仲間入りをするべき時に達していながら、精神的にはまだ自己形成の途上にあり、大人社会に同化できずにいる人間。 

出所:コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E4%BA%BA%E9%96%93-646799

の事だ。このモラトリアムという言葉は学校を卒業しても就職もせずにプラプラしている人や学校を卒業出来ず留年などしている人などに使われたりするイメージだが、時々耳にするアダルトチルドレンという言葉も似たようなイメージであろう。

同様に、アダルトチルドレンというのも、大人になっても子供の状態から抜け出せない人の事を指して言われる言葉である。(この言葉は本来的な意味とは異なるカタチで流布したようだ。精神学の領域ではアルコール依存症の親や虐待などの機能不全家族で育った、精神的外傷を抱え生きづらさを感じている人の事を言うのであり、この言葉は精神科医斎藤学によって日本に紹介された 出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%B3#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E3%81%AE%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8A s

これらモラトリアム人間だのアダルトチルドレンという言葉は「あいつはまだ大人になっていない」とこれまでよく否定的な文脈で使われたきた。

しかし寿命が伸びて人間の感覚が変わってきているのだ、と考えたら、それらは当然のことだったのではないか、とも思えてくるのだ。

確かに社会の側は社会の生産人員が一人でも欲しいから早く大人になれとプレッシャーをかけるのだが、一方では寿命が伸び、人生の長さが増えたのだから、昔の時代では大人だったかもしれないが、今の時代ではまだ子供でいるべきなのだ、と彼等彼女たちは人生の長さを無意識に意識し自分の行動を最適化してきた可能性があるのではないか、という事だ。そもそも、社会と個人という対立軸があるとすれば、そんなに早く大人になってしまっては勿体無い。

嵐の大野くんはミッドエイジクライシス?いや、まだ長い思春期の可能性

つい最近では国民的歌手の嵐が活動休止を発表した。

そしてその理由として、リーダーである大野智の「人生を見つめ直したい」というのが、40も間近になって大人の夏休み、などとネットやメディアで少々揶揄されたようだが、それが冗談ではなく、まさに大野くんは青年期が伸びた事によって未だにアイデンティティの揺れる思春期を過ごしている可能性があるのである。そしてそれを他人事のように見ている人は、自分も未だにそういう心理状態になる可能性がある、という事に思い至る必要があるかもしれないのだ。

僕がふんふん思った当時、人生が100歳まで行くのだとは僕は全く思っていなかった。30で大人くらいのもんだろ、などと猶予が伸びたような気がしたものだが、今なら40で成人の感覚でも十分なのかもわからない。

そしてもう一つのポイントは、大野くんの件は、これまで40前後にくると言われているいわゆるミッドライフクライシス(中年の危機)とは違うという可能性である。それはつまり、大野くんの悩みはまだ青年期のアイデンティティに悩む時期の延長であり、これまでのミッドライフクライシスは今後はより後にくる可能性がある、という事である。


中年の危機とは、中年期特有の心理的危機、また中高年が陥る鬱病や不安障害のことをいう。ミッドライフ・クライシス(Midlife crisis)の訳語であり、ミドルエイジ・クライシス(Middle age crisis)とも表記されるが、 英語圏では前者のほうが一般的である。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F

それが60歳あるいは70歳の時期かもしれない。そして、人生のセカンドライフは、その後に40年あるいは30年続く可能性があるのである。

人生プランの見直し。人生マラソンのどこでエネルギーを最大にするか。晩年型。

人生は長い。本気を出すのは50歳からでいい

予防医学者石川善樹「人生100年時代のキャリア論」https://bnl.media/2017/01/ishikawa-career.html

とまあ人生が伸びてくることによって人間の精神的様相にも変化が起こり、未だに社会の側がそこに感覚を合わせられていない、という可能性を述べてきたわけだが、自分の身を守るのは自分であって、我々自身も人生プランのようなものをまた考え直す必要がある、という事だ。

石川は記事の中で沢山の転職を勧め、5つの専門性を持って大局観を持って人生を眺めながら50から本気を出して輝けばいい、という事を述べるのだが、50と言わずとも、自分自身で人生のどこで輝くかをやはり考えるべきだろう。

もし人生がマラソンであるなら、ペース配分に気を配る必要も出てくるし、トップスピードを出すのも別に前半でなくても良い。もっと言えば、基本的に短距離走は勝ち負けの勝負であるが、マラソンであれば自分のペースで完走を目指しても良い。

猛スピードで短距離を走ってみたら、実際はマラソンだったのであり、途中で息切れして完走さえ困難になる、というのが一番困る事態である。

それがよく言われるのがスポーツ選手やアイドルなどであり、引退後の第二の人生をどう生きるか、というのはよく話題にされるテーマだ。

人生で一度人より輝ける瞬間がある、というは勿論素晴らしい事なのだろうが、もはやあまり周りばかり考えて常に競争マインドに薪をくべながらギスギス生き続ける必要もなく、他人より自分、自分なりのパワー配分自分なりの人生をしっかりと見つけることが重要なのかもしれない。

江戸時代、国学者の本居宣長は当時の短い平均寿命の時に27歳から三重の松坂で国学の勉強を始めたと言われるし、伊能忠敬に至ってはなんと50歳を過ぎてから一念発起をして地図を作成し始めたという。(これなど今で言えば80を過ぎてからの活動であり、精神的タフさがバグっている)

出所:本居宣長https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7、伊能忠敬https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC

このように、日本の歴史を見渡しても人生の晩年の後半で最大のエネルギーを爆発させる人は見つかるのであり、これからの時代は「起業は20代の内にしなければいけない」のような「何歳までに何々をしておかねば成功しない」みたいな戯言に惑わされないよう、いくつになってもなんでも出来る、という事を忘れないで行きたいものである。