都会の孤独。それは他人のリア充っぷりを嫌でも見てしまうという事。

前の記事で僕は都会は寂しい、と書いた。本記事ではその事について述べてみたい。

確かに、都会は寂しい、というのは少々語弊がある。都会は、自分の今現在の人生に充実感を持って生きている人にとっては良いものだ。

知り合いが多かったり、明るく笑い合える仲間が周りにいる人にとっては、都会はいつも選択肢が多く、開かれた人生を作る最高のプレイスペースだ。

いや何を言うんだ。語弊云々より、普通に考えたら地方の生活の方が寂しいに決まっているだろう。都会なら周りに人がいるんだから、少なくとも地方よりは寂しいわけがなかろう。

確かに、そんな風に考える人もいるだろう。地方の田舎のほうが寂しい、という意見ももちろん否定は出来ない。

人の感じ方は様々だし、孤立無援で、絶対的な孤独の前に今佇んでいる高齢者の方もきっと日本には数多いはずだ。

実際高齢化率も東京などはまだ良い方で、他の県になると高齢化率30%を超えているところが非常に多いのである。しかし、都会には他者との比較を余儀なくされる寂しさがあると思う。それは、嫌でも他者の人生が目の前に溢れてて、ふと自分の境遇の虚しさを意識させられる事があるのが都会の嫌なところだという事だ。

昔の自分の経験や自分の祖母などをみていても、人は人のひしめく社会というものから離れ孤立していようと、確かに退屈かもしれないがある程度空想でもしながら毎日平穏には生きていける生き物だ、という事を時々思う。

しかし、それが都会という社会の中にいると話は別で、社会の中でこそ他者と自分の人生を比べねばならず、心の平穏が乱れる事が多いのではないか。僕は都会のそういう孤独というものを考えてしまう。

地方にいれば対岸の出来事でも、都会にいれば諦めがつかない?

例えば一年の終わりが近づく冬の金曜日、夜10時頃に都心や大都市の人の溢れる駅の改札を通る瞬間をイメージしてほしい。帰り際に立ち止まっているグループの人や、幸せそうな若いカップル、そのような人たちが改札の周辺には溢れている。

するとどうだろう、何故だか周りの人たちは人生がすべてうまくいっているように見えてくる。友人に囲まれ、なんだかんだ上手いこと立ち回って社会の中でしっかりと生きいているように見える。一方で自分はどうだろう。こんな時だって一人で、特別何の予定もなく一人で家に帰るだけだ。

そこが地方で都会のように目の前に人が溢れていなかったり、人がいても皆がなんだがぼんやり一人でとぼとぼ歩いているような地方だったら、感覚が麻痺して自分の人生が良いだの悪いだの考える事がないかもしれない。

テレビやネットの先で皆がいくら楽しそうにしているのを知っていても、どこか遠い事の話だと何となく諦めがつく。恋愛などでもそうだが、人は手に届きそうで届かないというのに心理学的に魅了されるようだが、手に届かないものにはあっさり見切りをつけられるものなのではないか。(参照元:https://matome.naver.jp/odai/2139684300829154801

都会を歩いていると、遠い話だとして諦める事が出来ないのだ。自分も都会にいて、なんで同じ場所にいるのに、自分はこんな風に一人で、目の前の人達はやけに人生の成功者に見える。

地方から都会に出てきた人などが「都会で人に酔う」なんていうが、きっとあれは人の数に酔っているとも言えるけど、もっと言ってみれば「人の人生の数に酔う」というものなんじゃないだろうか。

ああ、自分はこれからこれだけの数の人の人生を押しのけて闘わねばならないのか、都会で元々生まれ育った人はそんな風に意識的に思う事はないかもしれないけれど、都会で頑張ろうと東京へ上京してきた人なんかは、ちょっと弱気になった時なんか、何となくそんな風に人生の数に圧倒されて足がすくむような思いをしたりするのではないだろうか。

高齢者にとって都会は危険?気力が落ちた時他人の人生に圧倒されるのでは?

確かに、若いうちはまだいいのである。そんな弱気な時こそ悩み苦しみ、気持ちを改めて人生を押し上げていこう奮闘する事もある。そうやって人は成長をしてゆくのだ、というのも一つの考えだろう。

そういう意味でも、やはり無理やりケツを叩かれる為に若者は都会へ出ていくのかもしれない。都会では人は焦りを感じさせられ、競争へ駆り出される。それが自分には無理だと感じた時、地元へ帰ってゆく、というのはこれまでの日本社会における人生ドラマの一つの筋書きだった。

その点、高齢者はそうはいかないのではないか。体力や気力がどうしても下り坂になってしまいがちな高齢者にとって、都会という場所は弱気に飲まれやすい、とくに寂しい場所になる可能性が高いのではないか。

いまや全国の孤独死の3分の1が都内23区で起きているともいわれる(2017年)。地域の結びつきが弱まり、近隣の人も気づかず数日放置されているケースも多いという。単身現役世代も、配偶者を失くし子どもと離れて暮らす一人親も、いまや誰もが「孤独死」のリスクにさらされている。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58175

このように、地方よりも東京の方が孤独死が多いと言う。このような点にも、都会の孤独の厳しさを何となく感じるのだ。

勿論、都会の中心で友人や家族と悠々自適な充実した生活を送っている高齢者の人たちも今現在沢山いるだろう。しかし都会の中心でトボトボと歩き、誰ともしゃべらないで他者の盛り上がる声を横目にビルの先の空を仰ぐ、そんな毎日をやり過ごす高齢者の存在に思いを馳せてしまうのだ。

約束一つあるだけで前向きになれる。リア充な高齢者となるために。

そんな事を考えた時、異世代ホームシェアリングの可能性に立ち返ることになる。家に帰れば誰かがいる。自分はひとりではなく、自分を頼ってくれる人がいる。そうだ、あの子と食事の為に急がなくちゃ、というその予定や約束があるだけで、どれだけ気持ちが明るくなるか。

鴨長明や兼好法師のように、他者との比較を避けるべく隠居をして人生の悟りを開くのも一つの手ではあるが、つながりを見つけながら人生で抗い続けるのも一つの悟りのカタチではないか。

不遇を感じている高齢者の人には、コンチクショウとまた人生の充実を図ってもらえればいいと思う。異世代ホームシェアは、そのような充実へ一つのステップになるのではないか。

いくつになっても人生の充実を感じられる社会であってほしい。などとそんな事を生意気にも思うのである。